自堕落日記

気ままに思ったことをつらつらと書く備忘録的なアレ

届かなくてもいいメッセージ。

 そんなものは自己満足だと思っていたけど、徹底して自己完結してる私らしい行動なのかもしれない。読まれないことが前提で、届いたとしても読めないメッセージ。そこに自分の気持ちを込めて送ることで、私の手を離れてくれると信じて放流する。抱えたままでいるのはつらいから押し付ける。そうしたところで相手は封を開けないだろうし、伝わらないことはわかりきっているから何も寂しくない。なんて素晴らしい方法なんだろう。誰のことも傷つけないから画期的だ。そんなに汎用性が高くないのがネックだけど、まあそこは仕方がない。そうそう取って良い方法ではないし、ここまで抱えきれない気持ちを持つことが珍しいからそもそも取ろうとは思わないし。

 返事や反応を期待しないことは楽だ。そもそも期待しないことが楽だ。それを難しいと感じる人もいて、そんな人が大多数なのは承知してる。でも私に言わせればこんなものは慣れの問題で、数をこなせばそこまで苦労しなくなるというものだ。結局は慣れがものを言う。ぶっつけ本番で試みるから難しいなんて、別に期待しないという行動だけに限った話じゃない。それなのにさも不可能みたいな言い方をする人が多いのは不思議だと思う。寂しい人間だと言われることも多いけどそれだけで人を判断するのは軽率じゃないかな。

 

 こないだ記録した感性の問題をある人に話した。自己完結している人間だから人に見てほしいとか知ってほしいと思わないっていう私の考察はあながち間違ってないみたいで、その人にも同じことを言われた。だけど作品や何かを発信する人というのは、何も自己顕示欲だけが理由ではないらしい。これを発表してくれと頼み込まれた芸術家も存在するのだとか。言われてみればそういうこともあるよなと納得した。

 そして私には何ができると思うか、意見も聞いてみた。曰く、現実世界では無理だろうと。やっぱりこのネットという世界が合ってるんじゃないかって。配信だとかしてみたらって提案されたから検討してみようと思う。このご時世に配信なんて珍しくも何ともないし、そもそも人に見て欲しい何かがあるわけじゃないから向いてないのではと思わなくもないけど何事もやってみないことには判断できない。

 世界は狭い。何をやったとしても、私の世界はこの自室で完結してる。もっと厳密に言ってしまうなら、頭の中で完結している。これまでもこれからも変わらない事実だから、提案を受け入れて行動したところで私の世界が広がることはないんだろう。私が私である限り、世界という概念を判断するのは他でもない私自身なんだから。いくら景色が変われどこの違和感や苦しみは残るんだと思ってる。違和感も苦しみも、景色が持っているものではなく私が持ってるものだから。

 虚しさとやるせなさを抱いたまま生きることはとてもつらい。それでも私は自分が間違っているとは思わない。そもそもの話正誤なんて存在しない。それを判断するのはどこまでいても人間で、各々の価値観でしかないのだから。誰かにとって間違っていたとしても知ったことではないのだ。それでいいのだ。

 

 届かなくてもいいメッセージ。届いたとしても伝わらないメッセージ。

 ぼくは、とてもすてきだとおもいます。